テーマ「シューベルトとリスト」

1.シューベルトについて

半年間の講義の中で非常にたくさんの作品を聴かせて頂きましたが、その中で私の心に一番深く残っているのは、シューベルト作曲の「糸を紡ぐグレートヒェン」です。講義後、「ファウスト」第一部を3人の訳で読み、また「グレートヒェン」自体も多くの演奏家で聴くほどのはまり様でした。なぜ自分がこんなにシューベルトの「グレートヒェン」に惹かれたのだろうと考えると、内容が劇的であるのはもちろんの事、この曲を聴くだけでグレートヒェン悲劇の全てを味わったような満足感を得ることができるからだと思いました。

シューベルトは「グレートヒェン」作曲当時は17歳。同じ17歳でもませたタイプから子供の域を出ないタイプまで多種多様ですが、彼の場合はまだ芸術作品から恋を学んでいる状態だったと思われます。作曲三日前に出会ったテレーゼ・グロープへの恋心がこの曲に影響しているという説もあるようですが、たった三日でここまでひとつの恋が成熟するとも思えず、これは今ひとつ納得のいかない説だと私は思っています。 私はシューベルトはこの曲を自らの恋愛に霊感を得て作曲したのではなく、「ファウスト」や詩に対する深い造詣をもって計画的に作曲したのではないかと思います。 そう思った理由に、シューベルトは「グレートヒェン」作曲直前に「悪魔の別荘:自然の魔法オペラ」というモーツァルトの「魔笛」に類似したオペラを作曲していたことが挙げられます。

「魔笛」はストーリーが支離滅裂だとよく言われますが、しかしとある本によると、一見支離滅裂に見える「魔笛」の内容は、実は西洋思想のある一部分に則しているのだそうです。そして「ファウスト」の、特に第二部も「魔笛」と同様に“支離滅裂”と言われる事が多いようですが(インターネットの「ファウスト」評より)、これも「魔笛」と同じ西洋思想の世界を表しているのではないかと思います。そして「魔笛」との類似作品を作曲していたシューベルトもまた、その思想の中にとっぷりと浸かっていたと想像します。 その西洋思想には魔術師と言われる人が存在します。それはファウストの職業でもあるのですが、魔術師は平たく言うと“神や神の業を科学等で証明しようとする人”でしょう。魔術師は神の業の秘密を、何かと何かを融合させて調和させることに見出しますが、子供の誕生もそのひとつに数えていました。

もちろんゲーテが「糸を紡ぐグレートヒェン」の詩を書くに際して、「女性の愛欲というのは神の計画の一部で・・」などという教訓を込めたとは思いませんが、17歳の多感な頃のシューベルトが詩に飲み込まれてしまわなかったのは、そういった西洋思想の下地ができていたからではないかと思います。

これは余談ですが、私が「ファウスト」第一部を読んで一番驚いたところは、「ファウスト」の中の神が、十戒の中の三つの罪(殺人と姦淫と母を敬わなかった事)を犯したグレートヒェンをいとも簡単に許したところです。その上、これは読んだのではなく書評などからの知識ですが、第二部のファウストの死の際には彼女に天使のような役目を与えています。教会で教わる神とはかけ離れた神の姿がそこにあり、この時代にはもう随分と神が弱くなっているのだなぁと感じました。

2.リストについて

私はピアノが好きなので、「グレートヒェン」を講義で教わった後、ピアノ独奏用に編曲されたものがないか探したところ、リスト編曲の「糸を紡ぐグレートヒェン」を見つけました。その探す過程において、必然的にリストの編曲について触れる機会が多くなったのですが、そこで驚いたのがリストの編曲数の多さと原曲の作曲者の多彩さでした。私が数えただけでも、彼がピアノ編曲(管弦楽編曲は入っていない)をした作曲家は59名に及びます。バッハやモーツァルトのようなリストから見て過去の大家や、同時代のショパンなどの著名人、そして今は一般に知られていないオーベールのような作曲家までいます。その中で私が知っている(つまり現在もメジャー)のは29名。59分の29が多いか少なのかの判断は人によって分かれるでしょうが、私はリストはすごい確率で後世に残る作曲家を当てていたのだなと思いました。 

私はこれまでリストが軽薄にしか思えてなかったのですが、講義で教わったリストの姿とこうして自分で調べたリストの姿が重なって、案外いい人なのかもしれないと思えたのはとても収穫でした。


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