ショパンとロマン主義

古典派からロマン派への移行は「形」からの脱却という形で行われたが、
若年時代のショパンは、「ポーランド伝統音楽のロマン派化」ということを大きな課題に掲げていたのではないかと思う。

彼の師であるエルスネルを始めとするポーランドの作曲家達の作品は、
ポーランド風を用いながらも形式的には後期古典派の域を出ていなかった。
しかし詩人ミツキェヴィチへの傾倒、ワルシャワ大学でのロマン主義擁護先鋒者ブロジンスキの講義の受講、
父ミコワイのコルベルク親子を始めとするインテリジェンスな交友関係は、
ショパンに真の意味での「ポーランド伝統音楽のロマン派化」の熟考実践に駆り立てたと推察できる。

では「ポーランド伝統音楽のロマン派化」とは何か。

ポーランド伝統音楽は三種のマズルカ、ポロネーズ、そしてクラコヴィアクの舞曲がその主流を占めるが、
これらの舞曲の、舞曲の命とも言うべきテンポ、リズムを超え、形式、拍子、伴奏形までも自由にしながら
尚且つ「音楽的隠語」という形で舞曲の要素を曲に練り込む事、
それがショパンの成し遂げた「ポーランド伝統音楽のロマン派化」なのだと私は思う。

たとえば1832年に作曲された練習曲Op.10-3通称「別れの曲」に私はその根拠を見出した。

ゆったりとした甘美なメロディが有名で、謙虚な作曲家自身も自画自讃したと伝えられるこの曲は、
初版譜以降、現在存在するあらゆる出版楽譜において冒頭には「ゆったり」を意味する「Lent ma non troppo」と表示されている。
しかし現存する2種の自筆譜では「快速・快活」を意味する「Vivace」「Vivace ma non troppo」と記入されていて、
このLentからVivaceへの突然の変更の謎は、各原典版においても詳しくは言及されていない。

ただ私はこの曲の有名な寓話、
弟子のグートマンがこの曲を練習していると、ショパンが彼の腕を取り
「おお、我が祖国よ!」と叫んだ、というエピソードに着目した。

研究の前に、このLentからVivaceへの変更は自筆譜から初版印刷された際に行われたが、
そのあまりの表現の落差に出版社の写植ミスも疑ったが、
ショパンが弟子へのレッスンの折に注意事項を書き込んだフランス初版譜は従来の「Lent」が印刷されており、
そこで何の言及、訂正も行っていない事からこれは彼の意思なのだと判断した。

とりあえず私はOp.10-3を自筆譜どおりのテンポVivaceで演奏してみたが、
ゆっくり弾いていた時には気付かなかった「舞曲」の様相をそこに感じた。
たとえば速度を上げる事により左手の細かいシンコペーションが存在感を増し、
また和声も、複合を含むがTXの単純な繰り返しで、
Lentで奏した時には旋律、つまり「歌」が主導権を握っていたのが、
Bassが軽快にリズミックに強調される。

フレージングを見てみると、Lentで奏する場合は冒頭から5小節目までノーブレスの、息の長い歌を感じさせるが、
Vivaceで自筆譜通りのアーティキュレーションで弾いてみると、
たとえば冒頭アウフタクトのh-eの繋がりにはスラーがかかっていて、次のdis音からe-fisがまとめられる。
つまり刺繍音と八分音符に十六分音符2つというリズムの組み合わせなのだが、
これはポーランドの舞曲によく見られるケースだ。

又、自筆譜ではスラーとクレッシェンドの数が初版譜より格段に少なく、直線的、男性的なイメージが表れ、
又、54小節目から続く左手の三連符を用いた特徴的なリズムは、
ピアノ協奏曲第1番の三楽章、クラコヴィアク風のロンドに共通の部分が存在する。

他にも「舞曲風」の部分はあるが紙面に限りがあるので例出は避けるが、
このような事から私は、Op.10-3は本来舞曲を奏するためのEtudeとして書かれたのではないかと思う。

これは私の推論だが、VivaceからLentへの変更は、全くの偶然から生まれたのではないかと思う。

ショパンが何らかの理由で偶然にこの曲をゆっくり弾いた時に、彼自身がこの曲の持つ美しさに驚き、
そして今更ながらにポーランド舞曲のもつ旋律やリズム、和声に舞曲以外の可能性を大きく見出したのではないだろうか。

テンポとリズムが命の舞曲をLentにし、テンポルバートまでさせてしまう、
後世の私達が「別れの曲」と称してショパンの恋に想いを馳せるまでに誤解をさせたこの手法、
つまり舞曲のテンポやリズムを超えた事に私は「ポーランド音楽のロマン派化」の一端を見るのだ。
そしてその手法はノクターンやバラードなど、一見舞曲とは何の関連もなさそうなジャンルにも使われ、
形式、拍子、伴奏形などを更に大胆に自由に発展させていくように思のだ。

先にも触れた「音楽的隠語」についてだが、
たとえばスケルツォ第2番Op.31の冒頭b-a-b-des-fは、Etude10-12通称「革命」の29小節〜32小節目の左手のパッセージと同型である。
ワルシャワ蜂起失敗の報を聞き絶望の中で書かれたと言われるOp.10-12の激情を、
曲の冒頭に、しかもsotto voceで奏する事を要求したショパンの意図は、
この隠語に気付かなければ表現不可能だろう。

ショパンはこのような形で彼の全作品に「ポーランド」を埋め込み、全ての曲に「我が祖国よ」と叫びたかったのではないだろうか。
彼の演奏するノクターンを聴いた女性が、その美しい音楽にうっとりとした表情を浮かべた事に失望したというショパン。

わかりにくい事にこそ真理は隠されている。

現在を生きる私達がショパンの作品に接する時、そういった「隠語」を見つけ出す事が重要不可欠な事のように思う。

2002.7.18

<第7回ショパンの会コンクール作文論文部門奨励賞(1位なし第3位)受賞 2002年>

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