“音楽と数学”からバッハを思う


「音の秩序に“神から人への恩寵”を見出す」という思想にバッハを思った。バッハの作品は、バッハ数やBach音など、とかくアルファベットや数字と絡めて語られる事が多いが、私はその考え方に傾倒しているわけではないけれど、密かに考えていることがある。

それはBWV1004のシャコンヌについて、この曲はアウフタクトから始まっているのにも関わらず、完全小節で終わる。たとえば手持ちの平均率クラヴィーア曲集を紐解くと、アウフタクトで始まった曲は、どのように拍の細かい音符であったとしても、きちんと不完全小節で終わっているし、秩序の人であるバッハがこういう「計算違い」をするのには、何か大きな理由があるのではないかと思ったのだ。

代表的な原典版出版社のベーレンライター社やヘンレ社のシャコンヌの楽譜を見たが、両社とも自筆譜に忠実に、アウフタクトから始まっているのにも関わらず、完全小節で終わらせており、尚且つ、それに対する注釈が書かれていなかったので、まずは両社へ見解を問い合わせてみた。すると、ベーレンライター社からは「Bach notated the last measure of BWV 1004 as a full bar, that is a dotted half-note with a fermata. Bach was I think not very interested in the duration of the final bar when he added a fermata, this is often the case also with the cello suites.」という答えを貰い、ヘンレ社からは「The answer is quite easy. Composers, like Bach, often neglected the correct notation. As there can be no confusion whether upbeat or not in the ciaccona, we nowadays normally keep the original notation, especially in Urtext editions. We even don't know if Bach has forgotten to write a rest in the upbeat-bar, a further possibility for a correct solution. Hoping, this answer will be helpful to you I remain with best regards」という答えを貰った。結局は両社とも、バッハが過ちを犯した理由は誰にもわからないので、そのまま出版したということなのだろう。

 誰にもわからないという事は想像することも自由だと判断した私は、バッハはシャコンヌをあえて拍を足らなくして「256小節+2拍」にしておきたかったのではないかと考えた。なぜなら、たとえばベーレンライター社はこの曲を「257小節」と数えていたけれど、私には数字的に「257」よりも「256」の方が調和の取れた数字のように思えるのだ。

 「256」がどのように調和が取れているかと言えば、テトラテュクスを考案したピュタゴラスは「4」という数字を「万象の秩序」と考えていたようだが、「256」は「4の4乗」になる。他にも、先生が講義中に少し仰られた「4大元素」の「4」、キリスト教の三位一体+人間の「4」、エゼキエル書やヨハネの黙示録に出てくる不思議な4匹の生物など、「4」という数字は西洋人にとって何かと鍵になる。「256」はその「4」にまつわる数字だから調和が取れているように思うのだ。

 シャコンヌがバッハの妻の死と時期を同じくして書かれていることもあり、私はバッハが「4」にちなんだ曲を作ることによって、神と人間を繋ぐ何かを書きたかったのではないかと考えた。また、ニ短調スケールの後に表われる最終の2つの変奏は、楽式論的には単なるダ・カーポアリアなのかもしれないけれど、その実際の音の生々しさは、神と人間の関係の中の「残酷」という一面を浮き彫りにしているようで、ここにも冒頭に書いた「音の秩序に“神から人への恩寵”を見出す」の逆、「拍数という秩序を外す事で“神の残酷さ”を見出す」こともバッハは考えたのではないか、と思った。

ただ、ベーレンライター版のイギリス組曲の前書きに「A further freedom in the writing of note values appears in the manner in which final bars are written when the movement begins with an upbeat. Since double dotting was not in general use in Bach's time the note in the Allemande of the First Suite, for example, must be understood to mean . Only Bach's pupil Heinrich Nicolaus Gerber sometimes (but not always)writes final notes correctly and the editor could see no reason not to follow him and also not to crrect those endings which were wrongly written by him. In the letter case the additional signs are marked as editorial.」と書いているので、あまりアウフタクトにこだわってもいけないのかもしれないし、バッハの他の拍数の不完全な作品や同時代の傾向なども調べる必要もある。そして、調べた結果、単なる「当時の習慣」や「バッハの癖」で終わる可能性が大きいようにも思う。

このように、まだまだ不完全な考えではあるが、当時のライプチィヒの、天に手が届きそうな程に学究的に生き生きとした様相と、数回の講義ではあったけれど、白石先生の宇宙を垣間見た事に刺激を受けて、少し考えてみたことをレポートにした。 この講義がとても楽しく、有意義だったことに感謝している。


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