Ohrdruf(1695-1700)オールドルフ
グライヒェン名門リツェウム(今日のギムナジウム)という有名な六学年制のラテン学校に通う。
授業料免除の待遇。その代わりに多声合唱団と聖歌隊のメンバーになる。(聖歌隊奨学生)
第3学級で席次第3位や第1位などの高成績。
ギリシャ語とラテン語の試験に受かれば大学への進学資格を得る事ができるが
バッハは最上級の第一学級で勉学していた1700年3月にこの学校を離れ
リューネブルクに赴く。


グライヒェン名門リツェウム(Lyceum Illustre Gleichenze)
1560年ごろ、グライヒェンの伯爵、ゲオルク二世によって設立された。
教科
◆ライヘル:「対話、あるいは初級会話」(Dialogi seu Colloquia puerilia)ゴータ1653  ラテン語練習問題とギリシャ語購読初級練習問題 ◆レオンハルト・フッター:「教義抄」(Compendium locorum theologicorum)ヴィッテンベルク1610  聖書から、また神学に関するルターの初期の著作から引用されたキリスト教義の体系的要約 ◆コルネリウス・ネポスによるローマの指導者たちの伝記  ローマの歴史家 ◆キケロ:「書簡」 ◆クルティス・ルフスの歴史書  ローマの著作家 ◆ヨハネス・ブーノ:「世界史の概念」(Idea historiae universalis)リューネブルク1672  バッハが次に在籍する学校の校長 ◆テレンティウスのラテン語の喜劇  紀元前190年頃〜159年? ギリシャ生まれのローマの喜劇作家 ◆算術
オールドルフからリューネブルクに移った理由
ホスピティアが突然いなくなった事が一因と言われている。  ホスピティア(hospitia)、またはホスピティア・リベラリア(hospitia liberalia)  (貴族や裕福な家庭が才能ある貧しいラテン語学校生のために設けたもので、 彼らの子供の家庭教師を務めるかわりに食事と奨学金を提供するというもの。) オールドルフからリューネブルクまで350キロの道程を、 バッハは友人のゲオルク・エルトマンと共に徒歩で向かう。 (東海道新幹線で東京から名古屋までが366キロ) オールドルフHP リューネブルクへ 戻る