研究課題 

J.S.Bach作曲 シャコンヌ(BWV1004より)が1拍足りない理由       

研究概要

目次
1.研究動機
2.シャコンヌは1拍足りない
3.ルターとピュタゴラスとカバラとドイツ神秘主義
4.まとめ
本文
  1. 研究動機

    バッハは敬虔なクリスチャンとして知られるが、数年前に自主コンサートにおいてブラームス編曲によるピアノ編曲版シャコンヌを演奏した際、私は何かそこに特異なモノを感じた。特に最後から10小節目のd mollの上下行スケールの生々しさに、バッハは一時的にせよ神を否定しているのではないかと思った程である。その時に感じた「特異なモノ」の正体を探る事を研究課題に選び、そして資料を求めていくうちにバッハは音楽家であるけれども、宗教家・哲学者・神秘主義者としての顔もあると感じるようになった。1月中旬から勉強を始めたために準備不足の感もあるが、今の時点での私の考えを述べたいと思う。

  2. シャコンヌは1拍足りない

    シャコンヌは、Bärenreiter版では全体を257小節と数えているが、実際は「256小節+2拍」が正確である。この楽譜を見た時に1拍足りないという事実をこれまで演奏家や学者にどう捉えられてきたのかを知ることは私のこれからの勉強課題だが、その上で私の考えを言うなら、バッハにとってこの曲は「256小節でなければならない理由」があった。記譜上の約束事を守って最後の小節に1拍加えて「257小節」にする事は簡単だがバッハはあえてそれをしなかった。バッハが「数象徴」にこだわりを持っていたことは、たとえば「BACH数」と言われるものや、キリスト教に関係する数字を曲中に含ませたりする事からもわかるが、シャコンヌの場合も「256」にこだわったと私は考える。 バッハにとって、256という数字が「4の4乗」だという事が大切だったのではないかと考える。

  3. ルターとピュタゴラスとカバラとドイツ神秘主義

    私は「4の4乗」はバッハの死生観を表しているように思う。「4」という数字は西洋思想にとって宗教、哲学、神秘学上多数の特別の意味を持つ。その中でもバッハの持っていただろう思想や哲学、宗教観を考える場合、ルターとピュタゴラスは欠かせない存在ではないだろうか。バッハはドイツ神秘主義者ヨハネス・タウラーの著作を読んでいた形跡があるらしいがルターもタウラーを熟読している。そこから(短絡的な結論だが)、バッハはルター及び、プロテスタントのルーツを研究していたのではないかと思う。またピュタゴラスに関しても、オルガン設計者のバッハにとってピュタゴラスは身近な存在で、その思想にまで興味を示しても不思議はないと思うのだ。 たとえばピュタゴラスのテトラテュクスを考えた時に「4」という数字は「万象の秩序」として簡単に説明がつく。 シャコンヌのテーマを4小節と捉えるか8小節と捉えるかの意見は分かれるが、音楽的にどうであれバッハは上記の理由から4小節をテーマとし、4小節×64という小節構造を意図していたと私は考える。テーマは最初バスに提示されるが、そのうちメロディに組み込まれ、しかしその個性は没することなく64回繰り返される。つまり64回同じ場所、主和音に戻る事を繰り返す。また最後の8小節は冒頭テーマに類似していて最初に戻るといった雰囲気を持つ。これはゴールドベルク変奏曲にも見られる現象で、テーマ(ARIA)と30の変奏、ARIA da Capoの計32部分からなり、30変奏目には「帰る」といった意味の歌詞を持つ民謡のメロディを借りている。そして3部分形式でd moll→D dur→ d mollと調は循環し、最後から10小節目のd mollの上下行スケールでは、文字通り行っては戻ってくる。 この「戻る」という事にバッハがこだわっているとすれば、テトラテュクスにおいて「10」になった後また「1」に戻る、いわゆるピュタゴラスの「輪廻転生」という死生観を表したかったとも考えられる。つまり4乗は「3次元×時間」というこの世を何度も繰り返すという風にも考えられる。しかし反面、ピュタゴラスの、人間以外のものへの輪廻転  生もありうるという考え方はあまりに異端過ぎるようにも思うが、ピュタゴラスの思想がヨーロッパに入ってきた時にどんな風にキリスト教と融合して受け入れられたのかを今後詳しく勉強していきたい。

    また「異端」といえば、たとえば「カンタータ 信じて洗礼を受ける者は(Wer da gläubet und getauft wird )BWV37」においてバッハは、題名のアルファベットを「a=1 b=2」という風に数字に変換し、その合計数283をそのままこの曲の小節数に置き換えているが、アルファベットを数字に変換する手法はカバラに由来するが、敬虔なクリスチャンがカバラを受け入れるというのも「異端」である。しかしルターとカバラ思想が結びついていたとすると、それもありえることだ。そもそもプロテスタントのルーツを探ってみるとルターはプラトン「ティマイオス」の影響を受けたアウグスティヌス派の修道院出身で、タウラー、エックハルトのドイツ神秘主義や、また彼自身もプラトンを勉強している。またプラトンをメディチ家に依頼されてラテン語訳したフィチーノはへルメス文書も訳しており、また、ピコ・デッラ・ミランドラはピュタゴラスとカバラをキリスト教に結び付けてヨーロッパに持ち込んだ。カバラとギリシャ哲学、そしてプロテスタントは密接不可分な関係で、バッハがそういう思想を塾考していた可能性はある。                                   

    また、カバラとピュタゴラスとドイツ神秘学とプロテスタントのそれぞれの中心には、神と個人との強固な関係があり、特にカバラとドイツ神秘学においては、「日常見えないモノを見る」神との合一、ドイツ神秘学で言うウニオ体験という共通点がある。ルターはウニオを知りながらプロテスタントからは切り離したが、バッハが信仰の究極の姿としてのウニオに興味を持っても不思議はないと思う。その中で彼の持つ死生観や、神の姿などが「4の4乗」という数字に凝縮されたのではないかと思うのだ。

    今の私には具体的な「4の4乗」の正体はわからないが、バッハが興味を持った可能性のある思想哲学とそのルーツを調べて、バッハと神の、宗教宗派を超えた超個人的な関係を探ってみたいと思う。 また音楽における象徴を考える場合調性も重要視されるので、バッハがニ短調を選んだ意味も考えてみたい。ただ、バッハの器楽曲の調性分布を調べてみたがニ短調の曲は、290曲中、ト長調、ハ長調、ハ短調に次ぐ28曲もあり、調性にこだわりすぎてもいけない、というのが実感である。(平均率クラヴィア曲集、インベンション、シンフォニアを除く)同時代を生きたヘンデルについても調べてみたが、やはり彼の器楽曲の10%を占め、珍しい調でないどころか、ニ短調はヴァイオリンで弾きやすい調という現実的な側面もあったとも思える。

  4. まとめ

    バッハがそれぞれの作品に表したものは、現在発表されている説すら勉強できていない私の予想などはるかに超えたものだろうが、だからといって私はバッハが象徴や数に支配されて作曲したとは思わない。シャコンヌにおいても記譜上正しく且つ256小節に納める方法は他にもあった。しかしいくら正しくとも最後のd音を四分音符にする事は音楽家としてできなかったのではないだろうか。私はこれから「4の4乗」の意味を得るために哲学書などを読むだろうが、バッハが音楽家である事だけは忘れてはならないと思っている。 バッハの死後、モーツァルトやベートーヴェンに崇拝されながらも長らく世に出なかった彼の音楽が、在欧ユダヤ人にプロテスタントへの改宗を呼びかけた哲学者M.メンデルスゾーンの孫によって発掘されたのも偶然ではないように思うし、またフリーメイソンのモーツァルトは、バッハから象徴を音楽に組み込む手法を学んだのだろうと想像する。音楽は哲学的な象徴だけでなく政治思想や人間の感情まで「言葉にできない、または言葉にしてはいけない事柄」を表現するのに適した芸術だと思うが、バッハは言葉を持たない器楽曲に「異端」を表したのではないか。彼の蔵書の中に敬虔主義の本があったと何かで読んだが、彼の立場や属していた場所以上に彼の心の中は自由だったのではないかと思う。 私自身、シャコンヌにおいて「4の4乗」にこだわる事自体稚拙な事なのかもしれないという怖れも持っているが、それでもこの研究を通してバッハに少しでも近づけたら幸いである。
                                   
    以上


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