シャコンヌ徒然
1週間は7日。
太陽・月・水星・金星・火星・木星・土星の7つの星。
人間頭部の穴の数。(目2つ・鼻2つ・耳2つ・口)
ヨハネの黙示録の7・・等々
7は特別な意味を持つ。

そして音楽家にとっては
ドレミファソラシの7つの音。。
それらの意味を考えてみた。

こちら

(2005/01/24)




〜あまりに単純な事〜

シャコンヌの小節数256を単数変換してみると以下になる。

2+5+6=13
1+3=4

4は十字架を意味する。
そして13は裏切り者のユダを意味する。

シャコンヌにおいて誰が誰を裏切ったのだろう?
神がバッハを?
バッハが神を?

ニ短調の意味するところを考える。

では257小節と数えるならばどうだろう?

2+5+7=14
7+7=14
1+4=5

5はイエスキリストが十字架上で負った傷の数で聖なる数だ。
バッハは5をイエスキリストと考えていた節もある。
7は天地創造の休息日で信仰秘蹟など多くの象徴的意味を持つ。
また14は有名なバッハ数だ。  

シャコンヌは完全な257よりも256の方がふさわしいように思う。


(2004/10/18)



キリスト教とカバラの違いのひとつに「天使の数」がある。
聖書には天使がたくさん出てくるけど
この天使って一体なんぞや?^^;

私が高校生の頃、実家の本棚にあった小説(と思う^^;)で
アダムは天使ミカエルで、悪魔(サタン)は天使ルシフェルで
双方がケンカしてサタンが負けてエデンの園の蛇になった・・・
とは読んだ事がある。(なぜうちにそんな本があったのかは不明^^;)

創世記に人や動物の創造が2度書かれているけど
土で作る前に作ったのは霊(魂)の可能性もあるけど
天使はまた違うのかな?
でもちりで造る前に「増えよ〜」とか神様は言ってるけど
アダムとイブが霊の段階で子作りしてたら笑えるなぁ〜<信者様すみません

でもちりで造る前の人が霊だったとして

(1)霊→(2)ちりで出来た体を持つ人(不老不死)→(3)知恵の木を食べて普通の人間になる
→(4)死んで復活する。そして悪い人は硫黄に焼かれエライ人は神の近くに行く。

4段階ができあがる!
これがエゼキエルの4つの車輪の象徴するものじゃないかな〜とか・・。
そしてこれがバッハの4なのじゃないかな〜・・。

ただしシャコンヌの場合、コーダ部分で初めに戻っている。
復活できずに、もう一度繰り返すのだ。
そこにバッハの本音があるんじゃないか・・とか・・。

でも短絡的かな〜
カバラの4界を勉強してみよう。。

それに新約の第二コリント12章冒頭部分に「第三の天」「パラダイス」という言葉が出てくる。
第一コリント15章には、天に属するものは
(1)「日の栄光」、(2)「月の栄光」、(3)「星の栄光」があると出ていて、
あと(4)「地に属するものの栄光」という言葉が出てくる。

「第三の天」とは「星の栄光」かもしれないし
4ってこちらの天の形態なのかも。。

あ〜やっぱりワケがわからない。。
こんなの私には無理っぽい・・ってか(爆)

(2004/09/09)




1736年製ルター聖書は大きな示唆を与えてくれました。

そしてちょっと思った事・・。

シャコンヌは小節数よりも、4部分に分けられる事の方が重要なんじゃないか・・(爆)
4の4乗と4部分、二重の鍵だったらもっとびっくりするけれど・・。

(2004/09/09)



〜ピカンダー〜  

 ピカンダーはマタイ受難曲やコーヒーカンタータの詞を書いた人で、
バッハとは家族ぐるみの交際をしていたようです。

行って、あなたがたのベッドの中で奏でなさい、
協奏的なデュエットを。
歓びの和音を持続させなさい。
それをずっと続けていれば
十月十日後には
素敵なトリオとなりますぞ


というような詩を書いていたピカンダーは大人気者だったけど、
発禁処分な目にも遭うなど「ろくでなし」という評価もあったようです。

しかし、私はこういう詩を書く人って匂うのです。
カバラの「男性原理・女性原理」を知っていてこういうのを書いてるんじゃないかって!
この人はバッハとライプチヒ文壇の交流の橋渡しをしていたらしいですが、
どんな交流があったのか興味津々。

ピカンダーって、モーツアルトにおけるシカネーダーに相当する人じゃないかと勝手に推測しています。
 
(2004/09/09)



〜1736年製ルター聖書〜



アンナ・マグダレーナ・バッハの書き込みがある聖書の挿絵です。
左に「モーセの十戒」の石版、右にイエスさまの磔が描かれていて
で、一番上の太陽の部分にヘブライ文字が書かれている。
これは恐らくアルファベットに直すと「YHWH」=神と書かれているのだと思う。

結局、教会での説教は教会の第一段階であって、もっともっと奥義があるのだろう。
そしてルターの場合、それはカバラなのだと思った。
ヨハネの福音書の冒頭、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
これが重要なのだと思った。

(2004/09/09)




〜Bach: "Alle Menschen mussen sterben." 
コラール「全ての人は死なねばならない...生きているものは滅び,新たに他のものにならねばならない」〜

ラングの「西洋文化と音楽 中」p584によると、
「ベートーヴェンは楽天家で、人間は善と愛によって自己を克服できるし、喜びによって同胞となれるのだと確信していた。
しかしバッハは信仰篤き者の持つ絶望感から、死においてのみ人間は解放されると信じていたのである。」らしい。

そ〜なのかな〜。。。
ヨハネの黙示録によると、

人が死ぬ
↓
立派な人は生き返って1000年間生きる。(第一の復活)
↓
立派じゃない人は裁かれて火の海に投げ入れられる。(第二の死)
↓
十二がどーのこーの(私には解読できないが、おそらく、これが神の御許に帰るという事ではないかと^^;)

私がもしクリスチャンだとすると、死んだ後の裁きの方が恐ろしいけどなぁ〜^^;
そーいえば映画「アマデウス」の中にも主人公がそんな事を言うシーンがなかったっけ?(自信ない^^;

コラールといえば教会で説教と共に歌われるから、「建前的」に作曲ってありえないかなぁ〜。
だから器楽曲の方がバッハの「本音」が出やすいって思うのはダメかな〜。

(2004/09/09)



バッハ(1685~1750)
ライプニッツ(1646~1716)・・ライプチィヒ生まれの数学者(微積分の発見者)哲学者。正統派プロテスタント

というわけで、バッハが31歳の時まで活躍していたライプニッツについての本を読むにつけ、
私が想像していたバッハ像は実はライプニッツの事だったのではないかと思うくらい重なる部分が多い。
(プラトンを継承しルネッサンスの思想家達を学び、ドイツ神秘主義を受け継いだプロテスタンティズムに身を置く。
そして正統派プロテスタントでありながら、カルヴァン派やカトリックとの接近、調和を目指した。)

マルティン・ゲック著「ヨハン・セバスティアン・バッハ第V巻 器楽曲/様々なる地平」p146以降に
そのライプニッツに関する文が出てくる。
[個々のモナドは全世界を表す。
これは振動の体系とと定義付ける事ができる。
そしてその体系が世界の振動の体系に編入される。
「最高度の段階において、モナドは完全な長調の和音を発する。」
−フランスの構造主義哲学者ジル・ドゥルーズは、ライプニッツのイメージをこのような言葉で再現している。
そして彼は音楽から借用されたあるイメージを追及する。
それはライプニッツが1687年4月30日付けのアルノー宛の手紙の中で、
何ゆえ個々のモナドがー互いにそうとは知らずしてー世界の調和の中で共鳴しあうかを説明する際に持ち出したものである。
個々のモナドは音楽の歌い手たちに匹敵する。歌い手は他のパートを知らないまま
自分のパートを歌う。それでも作曲家が定めたものに従って、全体が調和するのである。]

バッハのフーガを全曲知っているわけではないのでコメントはできないけれど、
平均率クラヴィーア曲集のフーガでいえば、短調24曲中ピカルディ終止は17曲、
主音のみで終止しているのは4曲、短調で終わってるのは3曲。(春秋社版調べ)

ニ短調の曲は第一巻第6番はプレリュードもフーガもピカルディ終止。
第二巻第6番はプレリュードはピカルディ終止、フーガは主音のみ。
ちなみにシャコンヌが含まれているBWV.1004は全曲主音のみで終止。
「ちゃらら〜♪」のトッカータの部分はニ短調主和音で完全終止。
「ちゃらら〜♪」の成立年代は1708年より前。
平均律第一巻は1722年完成、第二巻は1738〜42年の間に完成。
ちなみにライプニッツの「モナド論」は1720年刊行。。
ゲックは「モナド論」刊行と平均律第一巻の完成を結びつけているが、
確かに平均律第一巻12曲の短調フーガ中、ピカルディでないのは18番、嬰ト短調一曲だけで、
プレリュードに到っては全曲ピカルディ終止だ。

「ちゃらら〜♪」が短調で終わってる事って、すごい意味のある事かもしれない・・(激汗)


(2004/09/09)



〜聖書の中に見つけた前世と霊の世界〜

◆前世(旧約エレミヤ書/1:5)

「わたしはあなたを母の胎につくらない先に
あなたを知り
あなたがまだ生まれないさきに
あなたを聖別し
あなたをたてて万国の預言者とした。」

◆霊の世界

◎その1(新約Tコリント/15:40~41)

天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。
天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。
日の栄光があり
月の栄光があり
星の栄光がある。
また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。

◎その2(新約Tコリント/15:42~43)

死人の復活もまた同様である。
朽ちるものでまかれ
朽ちないものによみがえり
卑しいものでまかれ
栄光あるものによみがえり
弱いものでまかれ
強いものによみがえり
肉のからだでまかれ
霊のからだによみがえるのである。
肉のからだがあるのだから
霊のからだもあるわけである。

◎その3(新約Tコリント/15:44~49)

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。
しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
最初にあったのは霊のものではなく肉のものであって
その後に霊のものがくるのである。
第一の人は地から出て土に属し
第二の人は天から来る。
この土に属している人に、土に属している人々は等しく
この天に属する人に、天に属している人は等しいのである。
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に
また天に属している形をとるであろう。

〜〜〜〜〜〜〜

バッハは・・・というより
クリスチャンの世界では
前世が信じらていると見ていいだろう。
で、霊の世界(すなわち死後の世界と見ていいかな?^^;)は
日の栄光と月の栄光と星栄光の3世界に分かれてる・・・
と見ていいかな?^^;


でも下の記事「〜創世記に驚いた事〜」に書いた

(1章で造られた人は「ちり」で造られた人とは違うらしい。
「ちり」を材料とすると1章で登場する「人」は物体ではなく
いわゆる設計図状態だったのだろうか?それとも霊?)

という駄文とこのコリントの聖句は重なる部分があるように思う。
詳しい事はわからないけど
とにかく前世と現世と3つの霊の世界があるという事だ?^^;
という事は5つの世界があるという事。。

いや、私としては「5つ」では困るのだ。
「4つ」じゃないと4の4乗が説明できない。(爆)

それと、ピュタゴラス的輪廻転生説は崩れる。
輪廻転生とは、やはり種子→花→種子状態を表すのか
それともインドかどこかの考えのように
死んだ肉体が微生物や他の生物に食われて
その生物の命になること・・・
それが輪廻転生なのか・・。

なぜ私の実家は真言宗なのでしょうか^^;
クリスチャンの家に生まれていれば聖書解読も
もっとスムーズにいくものの^^;
というより、聖書圏に住む人にとっては当たり前の事を
私は調べてるんだろうな〜(哀)

(2004/07/26)




〜創世記に驚いた事〜

それは神の性別についてです^^;
以下、創世記より抜粋
( )内は横井のコメント

1:26
われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り〜

(「われわれ」という事は神は二人いるのか?
ある解説書には威厳の複数形と出ていたが)

1:27
神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち神のかたちに創造し、男と女に創造された。

(神の形・・という事は神は「男と女」だったのか?)

2:7
主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。
そこで人は生きたものとなった。

(1章で造られた人は「ちり」で造られた人とは違うらしい。
「ちり」を材料とすると1章で登場する「人」は物体ではなく
いわゆる設計図状態だったのだろうか?それとも霊?)

2:18
人がひとりでいるのはよくない。彼のために助け手を造ろう

2:22
主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り〜

2:24
それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

(父と母・・という事は、神は夫婦?)

2:25
人とその妻とは二人共裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。


〜〜〜〜〜〜〜〜

父なる神の他に母なる神がいる・・と主張するキリスト教会もあるようです。
また、とあるカバラの研究書には、「神様雌雄合体説」が書かれていました。

この雌雄合体説は「とんでも系」に見えて、
実は心理学的にも根拠はありそうに思います。

つまり、男は男の心を持って生まれ、女は女の心を持って生まれてくる。
それが異性との交際や結婚を通して、男は自分の中に女の心を取り入れ
女は男の心を取り入れて、心の成長が完成する。

中世の錬金術の本を見ると「雌雄合体」の人間の絵がよく出てきます。
一つの身体に男性と女性の2つの頭がついているもの、
マジンガーZのアシュラ男爵系のもの
女性なんだけどアレも付いてるもの^^;

この辺の突っ込みが、私の見た限りでのキリスト教系文献にはない。
ある本には「2:24」は親離れの由来として書かれてる・・と説明していましたが
それも在りえない事ではないですね^^;

バッハのシャコンヌとは直接関係はないかもしれないけれど
バッハの子沢山ぶりを思うと、頑張って”雌雄合体”してたんだろうな〜なんて^^;

あ〜ひんしゅくひんしゅく^^;


(2004/07/08)



〜在りえないけど在りえないとは言い切れない事〜

「もうひとつ第五の構成体があるのですが、
これは神がそこに様々な絵を描くために使ったのでした。」 (プラトン:ティマイオス)


この第五の構成体がいわゆる正十二面体。
古代ギリシャの哲学者達は正十二面体を聖なるモノと考えてたそうです。
どのくらい聖なるものだったかと言うと
正十二面体を図面に表したピュタゴラス派のヒッパソスが
表した罪で海で溺れ死んだという風評が立つ位^^;
(ヒッパソスの死には色んな説があるようですが)

さて、シャコンヌは私の説だと
4小節×64の部分で出来ていますが
この正十二面体の体積は
正4面体の体積×約64で出来ているそうです。

1辺を1として体積を求めると
正四面体は0.12、正十二面体は7.66
7.66÷0.12=63.83333333

バッハも驚きのとんでもコジツケ学だ^^;


(2004/07/07)



シャコンヌと同じような形、
つまりスペイン起源の3拍子の舞曲で変奏曲形式のものにパッサカリアがある。
バッハのパッサカリアはオルガンの独奏曲で彼の青年時代に書かれた。
パッサカリアの楽譜を調べたところ、シャコンヌと同じように
弱起で始まりながら最後は完全小節で終わっている。
「こりゃエライこっちゃ!」というわけで、せっせと調べる事にした。

構成は1拍のアウフタクト+(8小節×21変奏)+フーガ124小節
フーガは3重フーガ

フーガも変奏のひとつと考えたら22変奏になる。
「22」といったら、カバラ思想の核「生命の木」のパスの数だ・・・・・・


(黒丸を繋ぐ線が「パス」)

生命の木とは、天国の生命の木を意味し、宇宙そのものを象徴している。
つまり無限に広がる大宇宙と、そして人体の小宇宙を表す。
聖書の創世記2:9にも「園の中央に命の木と、」との記述がある。

ってここまできたらコジツケのような気もするが
ここは徒然してみたい^^;

そもそもパッサカリアにフーガをつけるというのは
ブクステフーデの影響をモロに受けた結果である。
ただし、ブクステフーデはパッサカリアの前にフーガを置くが
バッハはパッサカリアの後に置く。

シュバイツァーはその効果を「フーガはそこで、全体を昂揚させる働きをする」と記述した。(註1)
しかし、生命の木のパスを考えた場合、昂揚の理由がわかる。

そもそもフーガとは何か。

ゲックの著に以下の文がある。(註2)

ヨーロッパの多声音楽の歴史において、とりわけ対位法的書法による厳格形式は
神的創造秩序の表現ならびに象徴と考えられてきた。
諸惑星のように各声部はみずからの軌道を進み、それにもかかわらず
同一の法則に従う事によって互いに関係づけられている。
このような意味において「平均率クラヴィーア曲集」のフーガはリヒャルト・ヴァーグナーに
「宇宙の理念(イデー)」という観念を与えたし
オルガンの為の「フーガロ短調」BWV544は彼をして次のように語らしめた。
「ここでは原初的な諸力が惑星のごとく心理的に励起されている。これは骨の髄まで音楽家だ。」


1600年代はガリレオ、ケプラー、ニュートン等の活躍した時代、
つまり天動説が崩れるという、教会にとってはある意味忌々しき時代でもある。
しかし、太陽系の秩序は神の奇蹟への賛美となった。
バッハがフーガを通して惑星の秩序を賛美しても何の不思議もない。

また聖書の創世記37:9に「日と月と11の星とが私を拝みました」とあるが、
バッハが生きていた当時は太陽系の外3惑星はまだ発見されておらず
バッハ自身、天文学の発展を予想していたとも考えられる。

(11の星となると、現在でもあと2つの惑星発見の可能性があるかもしれない^^;)

勿論、「惑星」というのは比喩でもあって、
異なる個性が調和して形成されるもの全てを表しているだろう。
バッハが22番目のパスにフーガを用いたのは
生命の木における最高位のセフィラ「ケテル」において大宇宙と接するに至る
宇宙の秩序の奇蹟を示したとも考えられる。


やっぱりコジツケかなぁ〜^^;
小林義武さんは著書の中で(註3)
「数象徴に関する解釈はあまりに根拠薄弱、もしくは独りよがり・・」って書かれているし
当方、かなり無駄な時間を費やしているのでは・・と思う事もあるのだが
しかし、入り口がいかがわしかろうとそこからバッハが見えてくるのも確かである。

根無し草の気楽さで、「乗りかかった船」と、
そこはいい加減に楽しく勉強してみようと思う。

って、この文章、アウフタクトの説明になってない〜(汗)


参考文献
註1:シュバイツァー著「バッハ上」白水社より p368
註2:マルティン・ゲック著「ヨハン・セバスティアン・バッハ第V巻 器楽曲/様々なる地平」東京書籍より p328
註3:小林義武著「バッハとの対話 バッハ研究の最前線」小学館より p390 



(2004/02/29)



マルティン・ゲック著「ヨハン・セバスティアン・バッハ第V巻 器楽曲/様々なる地平」を読んでいる中で
p151にシャコンヌに関する以下のような一文を見つけた。

「これが、さまざまなカバラ的解釈により、
マリア・バルバラ・バッハの死への「トンボー」[弔いの音楽]とみなされたのは・・・」

そして参考文献にヘルガ・ケーネ著
「ヨハン・セバスティアン・バッハのシャコンヌ−舞曲ないしトンボー−有名作品の秘密の言葉」(1994年)が挙げられている。

バッハの研究に「カバラ」というズバリそのものの言葉が使われた事に驚いたが
シャコンヌについて「何か」の研究をしている人がいた事は予想通りだった。

ただ上の一文には以下の言葉が続く。

「[弔いの音楽]とみなされたのは、せいぜい思弁にすぎない。」

数象徴の研究については、バッハが証拠を残していないかぎり証明は不可能である。
それと同時に、反証も不可能である。

しかしゲックを読んでいると、シャープは十字架、BACHの各音も十字架に見えてくる。
そして「謎カノンBWV1077」が存在する事。。

シンボルは存在するのだ。

シャコンヌが1拍足りない事から、私の「とんでも学」はもっともっととんでもない方向に行きそうだ^^;

(2004/01/15)



ベーレンライター版のイギリス組曲の前書きに以下のような文を見つけた。

A further freedom in the writing of note values appears in the manner 
in which final bars are written when the movement begins with an upbeat.
Since double dotting was not in general use in Bach's time the note  in the Allemande of the First Suite,
for example, must be understood to mean   .
Only Bach's pupil Heinrich Nicolaus Gerber sometimes (but not always)writes final notes correctly
and the editor could see no reason not to follow him 
and also not to crrect those endings which were wrongly written by him.
In the letter case the additional signs are marked as editorial.


英語に自信がないので英文のままに掲載したが、
きっと、アウフタクトで始まったアルマンドの最後の音符は複付点四分音符であるべきが、
バッハの時代には複付点は一般的ではなかったので付点四分音符と記譜している事が多い。
しかしゲルバーが訂正しているのでこの版ではそのまま採用する・・みたいな事を書いているのだろう^^;

バッハは最後の音符に無頓着だったのだろうか?
しかしシャコンヌの場合は複付点音符なんて当時マイナーな音符ではなく
四分音符か付点二分音符か、、または小節を足してもいいくらいの事で
複付点よりは大きな問題だと私は思う。(汗)

(2004/01/03)



シャコンヌ冒頭のボウイングは私が知っているだけでも3種ある。
下の楽譜はブラームスによるピアノ編曲版の「左手の為のシャコンヌ」に
シェリングとコーガンの演奏VTRから、私が採取し記録したものだ。
上がシェリングで下がコーガンだ。
(冠がダウンボウで、V字がアップボウ)




で、あとひとつのボウイングは立ち読みで見たのだが
なんとアップボウから始める。(ブタペスト出版)
しかし、アウフタクトで始まるのだから
アップボウは結構説得力があると私は思っている。

(2003/12/17)



バッハより少し前の時代の人の書いたシャコンヌとパッサカリアを集めたCDを聴いた。
("CHACONNE" MUSICAANTIQUA KÖLN & REINHARD GOEBEL/ARCHIV PRODUCTION POCA-1130)

結構のどかに聴けて楽しい^^
で、解説書を紐解くと・・・

〜抜粋〜

17世紀においてシャコンヌがことのほか人気を博したのは
定型の形式による舞曲(アルマンドやクーラントなど)とは異なり
短い、和声的に明確な低音旋律線の規則的な反復が
−あたかも永遠の「宇宙の調和」の部分であるかのように−
シャコンヌを実際上、無限なものにしていることによるかもしれない。

〜抜粋終わり〜ラインハルト・ゲーベル*訳:西原稔

_| ̄|○

なんだか私も「研究計画」に似たような事を書いたっけなぁ〜 

実は私は大学院入試にこの説を持っていったのだけど
口頭試問の先生から「こんなのは学会にない!」と酷評された上に不合格になりましたが
本当はあるんぢゃないの〜?って思った瞬間でもありました。

(2003/11/01)



「シャコンヌ」はワルツやマズルカ等と同じく、舞踏の一種だ。
元々はスペイン起源の、男女の営みに通ずる官能的なダンスである。

バッハは何故そういった「シャコンヌ」を形式に選んだのか。

「神との合一」という言葉がある。
バッハのカンタータにも合一を表した物があるらしいが
この「合一」は、たとえば戒律の厳しい中世の修道院では
幻視をともなうウニオ体験、つまりエクスタシーの中で神と見える。

バッハは官能を「神の計画」と考えていたのかもしれない。

(2003/10/05)



バッハの母方が傾倒していたアナパプティスト(再洗礼派)系について調べているが
当時の異端に対する拷問、懲罰、死刑のあまりに残酷な方法を目の当たりにして
これまで無邪気に性善説を信じていた私の思いは揺らぎつつある。

よくもこんな方法を考えつくものだと・・・・。

置かれた環境によって人間は悪魔にも天使にもなれる・・。
そう、私だって当時の状況に置かれたらどうなるかわからない。。

教育が大切だって思う。

(2003/10/02)



バッハに神秘主義傾向がある・・という事を証明しようと
今は、プロテスタントやバッハの先祖について調べている。

その一環で読んでいた、杉山好著
「聖書の音楽家バッハ<マタイ受難曲に秘められた現代へのメッセージ>」P130(音友)の中に

「ルター派の正統主義もこの楽匠の本当の宗教ではなかった。彼の本当の宗教は神秘主義であった。
バッハの最も内質な本質に従えば、彼はドイツ神秘主義の歴史の中の一現象である。(A.シュバイツァー)」

という記述があった・・・・・・・。

かなりショックを受けた。
私の研究って既出論なのだった。(;;)

しかしやっぱり自分でバッハを調べたいという欲求はまだうずいてる。
そう、自分で調べて納得しないと意味がない。
そしてそこから新しいものが見つかる可能性だってある!
頑張ります!

(2003/05/02)



シャコンヌが一拍足りない理由について、結構過激な発言をしているけれど
私的には、研究計画に書いた事が唯一の真実だ〜とまでは実は思っていない^^;
一拍足りないのはバッハが四分休符を書き忘れたというのが大筋の見解だけど
ただ、こういう可能性もありますよ〜という事を提示しているのだ。

それにしても調べればバッハと神秘主義の関わりというのは出てくるもので
私もバッハの母方が神秘主義者と知った時には3分間くらい固まった。^^;

勿論、バッハがプロテスタントだというのを疑うつもりはないどころか
彼が生きていた頃のプロテスタントはルターが創設した時よりも人の世に染まっていたのではないか、
そしてバッハはそれを嫌って真のルター正統派の信仰を目指していたのではないかという
現在のプロテスタント信者の方が聞いたら引っくり返りそうなことを私は考えている。^^;

日本では西洋の神秘主義というものにあまり接する機会がないせいか
私の意見は「絶対にありえないケース」と一蹴する人が多いのではないかと思うが
しかし、バッハがプロテスタントだけの神ではなく、カトリック、そしてイスラムやユダヤなど全てを包括した
この世の創造主である「真の神」を信仰していたと想像するのはとても楽しい事だと思う。

宗教、民族の違いによる戦争が後を絶たない現代の世に
バッハが宗派を超えた信仰を持っていた可能性があると提示する事は
それなりの意義があると私は思っている。

(2003/04/24)

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